講師Mのドイツ音大留学記

 〜ドイツ音大ピアノ留学

 皆さんはドイツへの音楽留学に興味ありますか?

 興味があっても、どうやって情報を集めたらいいかわからず、時間ばかりが過ぎていく。そもそも、周りに反対されて決断ができないという方もいるのではないでしょうか?

 在学中に留学すると単位はどうなるの?日本の音楽大学や大学院を卒業してから行くと、どういう可能性があるの?コンクールや講習会はどうしたらいいの?教職やほかの資格試験と並行はできる?そもそも、希望する音大に入れるの?語学学校はどこで行けばいいの?どのくらいバイトや副業ができるの?新型ウイルスによる制限は?滞在中に病気になったり、困ったことが起きたらどうすればいいの?

 

こういった疑問は尽きませんよね。

 

勢いで日本を飛び出し現地に着いてから考える!という人はともかく、やはり海外に出るとなると言葉だけでなく、治安や文化の違いも心配ですよね。どのような準備が必要なのか、そもそもどうやって受験校や先生を選ぶのか、金銭面、将来の計画について日々悩んでいる方も多いのではないでしょうか。

 

この先の音大留学ページでは、実際の経験に基づいて、受験から卒業、バイトや語学学校、生活のこと、困ったことや学んだことを紹介し、みなさんの「?」をちょっとずつ解消していきたいと思います。

 

ピアノ中心の話になりますが、他楽器や歌手の方にも当てはまる部分があるかもしれません。

 

実用的な話に入る前に、少しだけ昔話にお付き合いください。そんな前提は要らないよ!という方は、からどうぞ。

 〜ドイツ音楽ピアノ留学〜はじまり

6年前。

私が音大のピアノ科の学生として、何やら意味不明な忙しい毎日を送っていた頃の話です。

これは脚色でもなんでもなく、敢えてこう書いたのですが、実は現役音大生でこのフレーズに共感してくれる人は多いんじゃないかと思っています。

 

音楽を学ぶと決めたはいいものの、一体自分が何をやっているのかわからない。

が、毎週のレッスンに追われて何故か忙しい。

 

という音大生は、実は凄く多いんじゃないかと思います。小さい頃に習い事として始めた人が大部分だと思いますが、気がつけば生活の一部になり、練習や発表会を通じ、ピアノを弾くということが日常の当たり前の行為として受け入られてきたと思います。

 

その中で「学問として、学業としてやってみよう」と思って音大に入る。

授業に出席し、毎週の課題をクリアし、レッスンに行き、ああでもないこうでもない、と言われながら曲を完成させ、時にはアンサンブルや伴奏をして、定期的にあるコンサートや試験の準備をする。

音大に入ってすぐ、この一連の流れに疑問を抱くことはあまりないと思います。先輩達もそうしてキャンパスライフを送っていますし、先生からも毎週のレッスンを大切にと、そして真面目に練習をしなさいとメッセージを受け取ります。それが普通なんだ、と感じると思います。

 

しかし私は疑問を持っていました。

一応教職科目を取ってみたものの、これは自分の目指すものではないと、最初の授業で感じてしまいます。

 

毎週のソロのレッスンは実りあるもので、これは後で登場する恩師の話になってしまうのですが、こんなピアニスト、ピアノの先生になりたいと思わせてくれる心に残るエピソードが沢山ありました。(後々紹介します)

 

それとは別にアンサンブルのグループレッスンという、やや緊張を強いられる科目や、一般教養の科目、気づかなかったことを学べる連弾、コンチェルトの授業などもあり、カリキュラムはとても充実していました。通学時間が長かった事もあって、練習とレッスン、そして通常科目と教職科目で朝から晩まで一休みもないという日々を繰り返していました。

 

こうして2年半が経ち、勉強している曲をユーチーブで聴いていたところ、あるピアニストの手が殆ど動いていない事に気付いたのです。

 

一体何を言っているの?ピアノを弾くんだから指は忙しく動いていて当然でしょ?と思われるかもしれません。

確かに指は動いているけれど、速い曲にも関わらず、1つの動きの中にあって、フレーズも1つの塊で聞こえてくる。

 

確実に何かが違う、周りの音大生のコンサートでよく聞く普通の演奏じゃない。何か重大なものが違うから、出てくる音楽が違うんだ。

 

ふと、自分が演奏している様子を鍵盤の横から録画してみると、指をバタバタと上げ下ろし、手首はカチカチ、腕は上下、リズムは詰まっているし、表情をつけているつもりなのに、強弱に変化はあっても、音色に変化は殆どありません。

 

そう気づいた時に音楽の聴こえ方が変わったのを、あの鳥肌がたつような感覚を、今でも覚えています。曲を再生すれば、今まで通り「ドレミ」で聞こえる。今まではそれで終わっていたのが、「ドレミ」中の意味も聞こえるようになったんですね。なぜ「ドレミ」に意味ができたか、それは、そのピアニストのピアニズム、つまり彼の言語の一端に気づいたからだったのです。「ドレミ」を、独立した「ド」「レ」「ミ」ではなく、ひとまとまりの響きとして聞こえるように弾くから意味があるんだ。今まで私が弾いていたメロディは一体何だったんだろう

 

そんな事を考えながら、毎週の課題をこなしレッスンを重ねれば重ねるほど、自分とそのピアニストの差が広がっていくのを感じていました。

 

と、同時にレッスンで先生が何を求めているかを感じられる事が増え、イメージは出来るのに、そのイメージを音にする方法が分からなくてどう練習したらいいかもわからないという泥沼にハマっていきます。

 

レッスンを受けて言われたことを守って弾けばピアノが上手くなるわけじゃない。それに気づいた私は、本格的に迷子になってしまったのです。

〜ドイツ音大ピアノ留学〜旅立ちの目的

 

世間では、音大ピアノ科に行っているというと、ピアニストまたはピアノの先生を目指しているという風になっています。それは別に間違いではないのですが、何がピアニストをピアニストたらしめるかという問いに答えられる人はあまり居ないのではないでしょうか。

 

音大に入ったくらいの頃は、実は殆どの人は世界の音楽家の様子、音楽界の仕組みは知りません。私たちは自分が生まれ育った国、文化、言語、風習しかわからないし、周りとのコミュニケーションと、与えられた環境の中で物事を判断しますから、クラシック音楽なんていう西洋の歴史そのものを最初から理解している人は少ないのです。

 

だから、目の前の曲をこなすという末端の出来事に目が行きがちで、音楽の起こりはなんなのか、なぜクラシック音楽にはルールがあるのか、調性とはなんなのか、何をもって和声と感情が結びつくのかという根本的な事を考える機会があまりないように思います。

「音楽はフィーリングだから、難しい理論は要らない。そんなものがなくても良い演奏はできる」

という意見もあると思います。

では、そもそもその全人類共通とされるフィーリングは、一体何から出来ているのでしょうか?

 

---

 

昔の話に戻ります。

 

ピアニストを目指す、という事はどういう事なのか。何をどう達成すればピアニストになれるのか。私は一体何をしているんだろう

 

思考の沼地にドップリ浸かっていた当時の私は、自分の演奏のダメに嫌気がさして全てを投げ出したい気持ちと、いつか、あのピアニストのように弾くんだという気持ちの間で、非常に苦しみました。

 

その頃、ドイツの音大から日本に公開レッスンに来た教授のレッスンを受ける機会がありました。

正直、レッスンでの演奏の出来はそんなに良くなかったと思います。しかし数回のレッスン後、教授は言いました。

 

ドイツに来て勉強しますか?と。

 

早くこの沼地から脱出しないと、一生分からないままで終わる!そう思った私は、よく考えもせず、行きまーすと、今思えば何とも恐れ知らずで軽薄な返事をし、交換留学生としてドイツに渡る事になりました。

〜ドイツ音大ピアノ留学〜交換留学準備

 さあ準備をしようとなると、まずはドイツ語、と誰しも考えると思います。

しかし私の場合は、行くと決めてから実際に渡航するまでが短かったので、準備らしい準備は殆ど出来ませんでした。

 

志望動機書を揃え、審査のためのDVDを録画し、何度か教授とやり取りをして、なけなしの脳みそを振り絞って、自己紹介を暗記したくらい。(こんなの現地生活が始まったらなんの役にも立ちません)

 

おまけに、確実に渡独できるかどうかも実は謎な部分があったのです。もちろん、交換留学に呼んでもらえるだけで有難い事なのですが、今までにそういう事例が無かったため、謎は謎のまま、とりあえずGO感は強かったです。

 

ドイツの音大は「プラッツ」と呼ばれる「志望する門下に空きは何席あるか」という定員システムで成り立っている所が殆どで、仮に試験に合格しても、プラッツが無ければ入学は出来ないことは、皆さんご存知ですか?

合格点にも色々あり、スレスレでプラッツが貰えたという人もいれば、ほぼ満点に近かったのに、席が埋まりすぎていてプラッツを貰えなかった、という人もいます。

つまり、合格点に達していて、プラッツが1つ以上空いていた場合、最終的に教授会議が行われ、どこどこの門下に行くように振り分けられるシステムなのです。ただしドイツのことですから、例外もあります。たくさんプラッツが空いている学期もあれば、0のこともあります。運の要素も大きいです。

 

志望する教授が明確な場合、そしてその教授と連絡を取りレッスンを受け、教授から「門下に入れてもいいよ」という表明が少なからずあった場合は、希望通りの展開になる事が多いですが、全くコンタクト無しで、志望欄に誰の名前も書かずにやみくもに受験した場合は、残念な結果になることが多いようです。(合格する人ももちろんいます)

 

さて、なんとか書類とDVDを揃えて提出し、「バチェラー(学士課程)の最終ゼメスターの学生として受け入れます」というお返事を貰った私でしたが、まだまだ問題は山積み。

学期が始まるのは10月頭ということで、約1か月の余裕を持ってチケットを用意し、学期が始まるまでホームステイしながら語学学校に通おうという事になりました。

〜ドイツ音大ピアノ留学〜出鼻は挫かれるもの〜

現地に着いてからしばらく、1番役に立ったものは、クロックスでした。

というのも、家の中でも土足で生活するのが主流のヨーロッパ。私がホームステイした先の家庭も例に漏れず、キッチン、バスルーム、ベッド周り、全て土足。

玄関マットで汚れを落とすとはいえ、土足で人の家を歩き回る事に抵抗があり、せめて割り当てられた寝室の中だけは土禁にしようと心に誓い、部屋の境界線にクロックスを置いて履き替える日々が始まりました。

 

さて、ドイツ語の話。

語学学校A1.1のコースを現地で受講し始めて数日して分かったのは、全員何も喋れないし、何かの単語を発音したとしても、各国の訛りが強すぎてどれもドイツ語に聞こえない、という事だけでした。先生の説明なぞ、一言も聞き取れる訳がない。休憩時間はみな英語を喋っているというカオスな状況。もちろん自分もそうです。単語を23つも繋げられないのですから、会話が成り立つ訳もありません。

 

これはひどい。

流石にこのまま新学期が始まったら、教授にそのまま熨斗つけて日本に送り返されるんじゃないかと思った私は、1週間をすぎた頃からホストファミリーと積極的に話すようになります。

食べ物の話、日本やアジアの話、電子辞書で素早く目当ての単語を打ち出し、肝心の文法は英語のまま、そこに単語を当てはめて喋るという謎の作戦で、かなりたくさんの単語と、ドイツ語の響きをとにかく聞きまくりました。電子辞書がなかったら、テンポよく会話するのは不可能だったと思います。ありがとう電子辞書。

 

勉強方法は間違っていたかもしれませんが、ある意味量はこなしてたのでしょう。しばらくすると、あちこちに聞き取れる単語が散りばめられていき、脳内で意味のある文章に組み立てられていきます。分からない部分は、妄想で補完です。不確かなのに、そんないい加減でいいのかって?大丈夫、この世に確かなものなんてありません。

 

単語を探して当てはめて、間違ってもいいからとりあえず何か喋るという方式が、全ての人に有効かどうかは分かりません。

私の場合は合っていたのか、会話の中から文法を感じ取れる事が増えていき、それが頭の中で体系的な動詞の変化や語尾の変化として結びついて行きました。

 

今となっては、英語を喋ろうとしてもドイツ語の文法しか出てこないので、英単語がわかったとしても、まともな英文にならないという逆転現象が起きています。両立させる才能はないようです。

 

さてドイツ語に光明が見えたような気がした週も終わり、サッカー観戦し、動物園に行き、アイスを食べ、ホストマザーが村の作品展のために作っている立体作品に色を塗って完成させた頃。

 

そういえば、ピアノ弾いてない。

新学期、レッスンが始まったら、一体何を弾くの?

ドイツ語のインパクトにやられ、ピアノの事もほぼ忘れていたトリ頭、なんとかして練習をしなければと焦りに焦りまくります。

ホストファミリーの家にピアノはない。語学学校にもない。あと3週間、どうするんだ

 

血迷った私は、少し歩いた所にある教会に押し入り、おじいちゃん管理人を捕まえてここのピアノ弾かせてくださいと半泣きで頼み込んだのでした。

〜ドイツ音大ピアノ留学〜アボ

 

1か月弱のホストファミリーでの滞在に別れを告げ、やってきたのは「アボ」と呼ばれる学生寮。音大の裏、徒歩30秒。8階建の古いマンション。

家具は揃っていると聞いていたので、スーツケースでやってきた私が目にしたものは、木枠のベッドと机、そしてブラインドが壊れた窓。

マットレス、なし。共通スペースはすべて男女共用。キッチンにはシルクロードを感じるスパイスの香りが立ち込めていました。

自分に割り当てられた部屋は、地上階(日本の1)で、道路に面しているのに外から中が丸見え。

床は前の人が土足で使っていたのか、無人の期間があったのか、土埃が積もっています。

 

色々と諦めた私は、ベッドの木枠の上に転がり、コートを布団がわりにして、とりあえず明日考えようと眠りについたのでした。

 

翌日、アボの倉庫からマットレスを運び、たまたま知り合った優しい先輩の助けで布団を買いに行き、生活に必要なものをいくつか譲って頂き、ネズミとイモリかヤモリの死骸に震えながら大掃除をし、窓に目張りできるような厚手の布を買い、カーテンのようにDIY

なんとか馬小屋よりはマシ程度に進化した寮と音大での練習の日々が始まります。

 

初回レッスンまで、あと数日。

〜ドイツ音大ピアノ留学〜現実〜

 教授のレッスンを何回か受けて分かったことは、自分が何も知らないという事でした。

 

アダムとイブもびっくりするくらい無知な状態でのこのことやってきた私の目に映ったのは、当たり前のようにドイツ語で討論するスペイン、ロシア、ポーランド等から来た学生たち。

個々のレッスンでも、クラス内の発表会でも、彼らは自分の事をよく知っていて、自信に満ち溢れていました。

指が速く動くかとか、大きな音が出るかとか、ミスの有無ではない、彼らは自分の言葉で何かを語ることができている。私が今まで一生懸命指を動かしていたのは何か別の作業をしていたんだ、と実感し呆然としていた頃、ある日本人の先輩の演奏を聴く機会がありました。

 

私、こういう音を出したいんだ!

 

直感でした。この先輩の出す一音一音そのものが、私が何年か前にユーチーブで衝撃を受けた一音一音にそっくりだったのです。

何かが鍵盤から立ち昇っている。1つ1つの音はクリアに輝いているけれど、脈絡なしに生み出されるわけではなく、大きなグループの中で混ざっている。

この何かが「響き」なんだと、ついに私の耳はその正体を捉えることが出来たのです。

 

と、同時にますます我が身に沁みる各国の学生との差や、先輩との違い。毎日、自分が何も知らないという事を知るだけの日々。強制ソクラテス状態です。

一晩でその差が埋まるはずがありません。相変わらず、授業は半分も理解できず、一体何が起こってるのか不明。教授のレッスンは、指示は分かるようになり、少しずつ改善はできても、その先がない。

 

教授の顔に失望の色が浮かんでいるのが、わかりました。

〜ドイツ音大ピアノ留学〜僅かなチャンス

 

交換留学の期間は約5か月間でした。

レッスンが進むにつれ、少しずつ進歩はあったと思います。しかし、手加減して貰っているという自覚も同時にありました。

 

5ヶ月をどう使うか。

日本に戻って卒業試験を受ける予定だったので、それだけはキッチリ仕上げておきたい。

考えた結果、とりあえず自分の悩みを脳の片隅に追いやり、今までの弾き方は大きく変えずに、帰国までの1つの成果としてプログラムを完成させる事に集中しました。

 

切り替え作戦が功を奏したのか、日本での試験はどれも無事に終わりました。

そして、さっさとドイツに戻る。

自分の中では「ユーチーブでみたあの世界的ピアニストの音の秘密が分かるまで帰らない」と、心に決めていました。

 

目的は、大学院受験。

周りに言われるまでもなく、今の自分のレベルでは博打だとハッキリ分かっていました。でも、答えを見つけるためには、これしかないような気がしていたのです。

 

5ヶ月の交換留学を終えて日本に戻ったのもそこそこに、もう一度ドイツに飛び立ちます。

 

ここからが、トンデモ事件ばかりの大学院受験の幕開けでした。

〜ドイツ音大ピアノ留学〜家探し

大学院の受験は、大きく分けて夏季と冬季の2回に分けて行われます。ただし通年で1度のみ試験を行う大学もありますし、編入等、他の方法で門戸が開かれている場合もあります。

 

私の場合は春にドイツに戻り、6月〜7月に行われる夏受験を目指す事になりました。

しかし、志望の先生どころか、どこを受験すれば良いのか、どうやって出願すればいいのか、それ以前に住むところも決まっていない状態。


 

の記事で紹介したアボと呼ばれる学生寮は、交換留学の間しか滞在できないとの事で、まずは退去までの23週間で0から家を探すことになりました。

 

家探しというと、ドイツ事情を知っている人からは「それはそれは大変だったでしょう」と心底共感して貰えるランキング上位に入るイベントです。

 

日本では不動産会社を通して物件探しをすることが多いようですが、ドイツでは基本的に大家に直接連絡をしなければなりません。

入居倍率は恐ろしく高く、メールで問い合わせても、30通に1通、返事があれば御の字。

ひたすら無視、無視、無視。

電話かけても同じか、挨拶した瞬間にガチャ切り。

定期的に送りつけられる「部屋は貸せるけれど今外国にいて鍵を渡せない。すぐ鍵を送るからお金を振り込んで欲しい」と英語で書かれた詐欺メール。

やっと内覧の約束を取りつけて、行ってみれば大行列、そして出てきた大家が「もう入居者は決まってるから帰ってくれ」などなど。

 

コールセンター並みに電話をこなした結果、私の元にやってきた1通のメッセージには、「明日の時に最寄りの〇〇駅で、証明書類をすべて持って来れるなら」との文面。この時点で退去までのリミットは数日。

 

大急ぎでパスポート、住民登録書類、電話契約書、残高証明、自己紹介文などを印刷し、翌日現場に急行。

煙草吸いません!パーティーもしません!などと猛烈にアピールた結果、なんとか一人暮らし物件を借りることができたのでした。


つづく。

コメント

人気の投稿